歴史散策・久留米藩を潤した櫨栽培
久留米市の中心街から6、7キロ東、耳納連山の麓に山本町柳坂曽根の櫨並木があります。晩秋には美しく紅葉した櫨並木を見ようとたくさんの人が訪れ、櫨まつりも開催されます。 今では観光資源となっている櫨並木ですが、そこには歴史があります。
柳坂曽根の櫨並木(久留米市山本町)
櫨の実はろうそくの原料になります。電気のなかった時代の灯火には菜種油かろうそくが使われました。ろうそくはできあがるまでには手間暇がかかり高価なものでした。筑後地域でも良質の櫨の実を収穫するための研究がさかんに行われました。
ろうそくの原料になる櫨の実
時代は江戸時代中期に遡ります。1730年頃(亨保15年)竹野郡亀王村(現久留米市田主丸町)の庄屋・竹下武兵衛(ぶへい)は櫨栽培、改良にとりくみ、20数年の研究を『農人錦の嚢(ふくろ)』という本にまとめました。1749年(寛永2年)には、久留米藩も櫨栽培に本格的に乗り出し、「櫨方(はぜかた)」を置いて奨励しました。武兵衛は山林で自然変異の櫨を発見し、地名をとって「松山櫨」と名付けました。
時代はくだり、御原郡寺福童村(現・小郡市)の内山伊吉は松山櫨を改良し、低木で実の多い品種を作り出しました。これは「伊吉櫨」と名付けられ、他地域で広く栽培されることになりました。寺福童村を含む一体は、久留米藩の支藩である松崎藩が置かれていました。「松山櫨」と「伊吉櫨」は、並んで全国に知られるようになりました。
内山伊吉之碑(小郡市東町公園)
久留米藩は当時、恒常的な財政赤字が続いていました。一揆も起こっています。久留米藩に集まる木蝋の半分は小郡産だったといわれています。久留米藩の幕末期の主要品目生産高では、久留米絣の9万両に対し、木蝋は36万両でした。櫨は久留米藩の財政を大いに潤しました。
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